※性表現などあります。閲覧注意














 名前を呼んでくれればよかったんです。毎朝僕の名前を呼ぼうとして口ごもるあなたに疲れた。
 
 この人は犯すと必ず嫌がる。泣いて、謝罪と悪態がごちゃまぜになったような言葉を延々とうるさくわめいて、何年もやってきたことなのに、時間が止まったままのようなこの人は学習しない。合間に僕の名前を呼ぶ。曽良君、曽良君、曽良君、曽良君、どうせ夜が明ければわすれる名前を。ごめんなさいとか許してください、という言葉と共に。憂鬱な音が鳴る。   さんの喉が引きつった声をあげる。火が体内の中でくすぶっているかのような熱さが湧きあがるのに、この人の身体で感じる快楽は常に寒かった。鳥肌が立つほどに。燃える体温と、冷える快楽に大切なものが殺される。気が、狂いそうだ。



 僕の父は、謝ることをやめなかった。やめろと制しても、殴っても、意味が壊れた謝罪を吐きちらす。一体何を謝っているんですか。一体何を許せというんですか。訊いても彼は答えない。泣き狂うことでせいいっぱいだ。だから苛立ち任せにこの人をえぐる強さを増した。僕は怒っても責めてもいません。だから謝らなくていい。ごめんなさい、やめて下さい曽良君。この人はずっと泣いている。うるさい、謝るな。残酷なほど痩せおとろえた背中に爪を刺すだけで、悲鳴が一際大きくなる。ごめんなさい、許して下さい、辛い、死にたい、やめて、痛い、怖い、許して、許して、許して。曽良君。この人は何度も何度も繰り返す。彼が名前を呼んでくれるのは、僕が呼び返せない今だけ。
 これは、この生活の象徴だ。














 身体がゆれていた。また怯えて震えているのか。そう思って背中に手のひらをやる。新しい痕が残るその背中をそっと軽くなでる。特に反応はなかった。もう終わりましたよ、と、声をかけてみても反応がない。首だけをこちらに向かせて、そこで気づいた。
 彼は震えているのではなく、痙攣していたのだ。












 彼の汚れを洗った後に、病院でもらっている白い袋を持ち出した。僕の服の袖も湿ったままだったので、袋が湿気って少しやわらかくなっている。シャツの前をはだけたまま上ばかり見ている父の口に錠剤をねじこみ、飲んで下さいとペットボトルのミネラルウォーターを差し出す。父は受け取りもしない。白い錠剤が舌にのせられたままミネラルウォーターがむき出しのままの胸のへこぼれていくばかりだ。腹が立ってきて、思わずペットボトルの口をぶちこんでごぼごぼごぼ、とその口へ水を注いだ。この人は飲み込みきれずに口からあふれさせて、床に手をつきながら咳いた。おさまるとその身体からまた力がぬけて、べちゃ、と倒れた。服が水を吸っていく。




 濡れた錠剤を拾って、もう一度飲んで下さいと促した。それでもやっぱり彼は倒れたきり動かない。再び真っ黒い苛立ちがわき出してきた。飲まないんなら、またさっきみたいなことしますけど、いいんですか。それは、脅しというよりは忠告だった。父は電気を食らったかのようにはね起きて、首を左右に振ったかと思うと、僕から錠剤をひったくる勢いで水も受け取らずに飲みこんだ。ちゃんと水も一緒に飲まないと駄目でしょう。僕はぐらついているこの人の首の後ろに手をやり、今度は慎重にペットボトルの口を寄せて、喉が上下しているのを見つめた。それでもこの人が怯えきっているせいで口の端からぼたぼたこぼれて胸の周りが濡れていく。それを眺めている間、身体じゅうが後ろめたさで腐っていきそうだった。




 その目が僕を見る。視線はこちらにあるのに、僕を見ているのか、見ていないのか、分からなくなる目つきだった。いつからか、この人はよくこんな顔をするようになった。まるで僕を通り越して後ろを眺めているようで、この人のこんな眼差しは、僕の存在をいつも危うくする。どうかしましたか。何も期待せずただそう訊いてみた。父は微笑んだ。随分と見ていなかった笑顔に身体がかたまる。
 父はそのまま、僕ではなく夢をみながらその夢の住人に語りかけるように、そっと言った。




 曽良君は、私の自慢の息子です。











 その一言に、心臓をごっそり持っていかれた気がした。




 しかし僕の呼吸は止まらなかったので、心臓も動いているのだろう、と機械的な気持ちで理解した。空白だけがつらぬくように吹きぬけている。この人を支える手を離してしまったので、父はぐらりと僕のほうへと倒れこむ。彼は僕の方へと腕をのばして、僕の腰に抱きつくかのような体制となった。この男の名前が相変わらず思い出せなかった。僕は父の名前を呼ぶこともできずに途方にくれている。だから仕方なくおとうさん、と呼ぶのだが、本当は嫌だ。この名前で呼びたくなかった。呼ぶたびにこの人は、愛してはならない生き物なのだと言い聞かされる思いだった。同じ血を持っているのに、流れているのに、どうして、と、幼いことだとわかっていても、僕はいつになっても、納得できなくて。曽良君は、私の自慢の息子です。言葉がずっと頭の中で廻りつづける。おとうさんが、僕の身体を抱く。この感触が幻であってくれ、と願いながら、そんな資格はないのに、今にも抱き返してしまいそうで、僕は、地獄に堕ちるだろう。と、思っ、た。



































































 おとうさん、聞こえていますか。謝るのも、許してほしいのも、僕の方です。僕の方なんです。




 ごめんなさい。