人知れず購入した毒は、それほど致死性の高いものではないと聞いたけれど、触れるのはためらわれる。しかし、奇妙なことにひかれずにはいられない。自分の意志とはうらはらに指先が自らそれへとみちびかれる。毒は粉末で、白くてさらさらしていた。彼が席を外したところを見計らい、湯のみへと振りかけると、混ぜなくてもすぐにそれは溶け去ってゆき、自分の湯のみの中と見比べてみても違いはもう分からなかった。



 毒と言うものを手に入れてしまってから、何だか妙に現実感というものがなくなっている。あの日売人の男に渡した金と引き替えに、自分の心も手放してしまったのかも知れない。ただ静かに、こういった一瞬を心なきまま待ち続ける毎日。それがようやく今日、訪れたのだ。毒を盛ることは、恐ろしいほど簡単だった。たったこれだけのことで、あの男が死ぬとは到底信じられなかった。彼が戻ってきても平静を保っていられたのはおそらくそのせいに違いない。


 向かいに座った彼はお菓子を咀嚼していて、なかなか湯のみを手に取らないことに焦れた。もしや感づかれたか。気づくはずはない。その毒を注ぐとき、あまりに粒子が細かかったおかげで何の音もしなかったのだから。押し殺した罪悪感に負けてしまわぬように、飲まないでくれ、いっそ不注意でそんなものぶちまけてしまってくれ! と叫びだしたくなる心をおさえて、早く飲め、早く飲め、とそればかり念じ続けた。心の底の願いよりも、上辺の呪いの方が伝わったのか、彼がついに湯のみを手に取る。


 その瞬間は毒を入れたあの時よりも、さらに、あっけなかった。飲む前も飲んだ後も、彼は特に何も気にしていないようだ。さりげなくお茶の味がおかしくないかと訊いてみると、そんなことはないと返ってきた。彼は変わらぬ横顔をこちらに晒し続けている。毒なんて、偽物だったのだろうか。それとも溶けたと思った毒は底の方に沈んでいるのだろうか。そう考えているうちに、彼が顔を仰向けたかと思うと、目がうつろになってゆき、そのままその身体は後ろへ倒れていった。ぱしゃん、と彼が手にしていた湯のみの中に残ったお茶が、服の袖をぬらしながら畳にしみこんでいく。




 ああ。





 今一人の男が毒を盛られて殺された。



































Cantarella.


− カンタレラ −



































 彼は眠りつづけている。瞼を動かさず、寝息もたてず、静かに眠りつづける。このような彼を隣でずっと一日中眺めることを、報いだと思っている。この男を殺した自分への。思えば小さな気まぐれで、旅の同行者を殺めてしまった、自分への。
 彼から視線を外し、かわりに立てかけてある鞄にむすばれた、ぐったりとした小熊のぬいぐるみと目が合った。ぬいぐるみがにじんでいく。拭う手が頬に届く前に伝った一筋は足元へ落ちてゆく。どうしよう、と今更思った。どうしたらいいのか分からなかった。ただそれを見ていたら大変なことをしてしまったという気持ちが、やっとよみがえってきたのだ。





「 ……マーフィー、君 」


 涙は今も流れ続けている。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうすれば、いい。


「 どうしよう。曽良君、殺しちゃった 」


 私は今、一人の男に毒を盛って殺してしまった。







「 叩いても、叩いても、この阿呆弟子、起きないんだよ。なあ、マーフィー君、私、大変なことをしちゃったよ。曽良君を、曽良君を……、大事な弟子を殺しちゃったんだよ 」


 どうしてこんなことをしてしまったのか分からない。ただ毒を手に入れたあのとき、曽良君に盛ることしか考えられなかった。そればかり考えつづけて、ついに実行してしまって、泣くなんて、彼が知ったら呆れて殴られる。けれど、曽良君は死んでしまった。私が殺してしまったのだ。こんな手ではマーフィー君を抱きにすらいけない。彼は眠りつづけている。私を叱らず、殴らない。なのに、涙が止まらない。曽良君! 曽良君! 私は叫んで彼を揺さぶった。自分が殺したというのに、彼が生き返ることばかり願って、実際彼が再び目覚めればどんな制裁を受けるかも考えず、泣きながらその名前を呼んだ。死なないでくれ、と叫んだ。




「 死ぬわけがないでしょう 」




 低い声が耳に届いた瞬間、身体が芯から震えた。
 その目が見開かれたかと思うと、派手な音を立てて、彼の大きな手が私の頬をはり飛ばした。死の淵から目覚めたとは思えないほどの馬鹿力で、私は転がされ吹っ飛んで行く。まだ毒が聞いているのか、彼が緩慢な足取りで私の服を掴む。


「 やってくれましたね 」


 曽良君は全て気づいているようだ。声が怒りに震えている。私は彼が生き返ってくれたのを喜ぶべきか、殺しきれなかったことを嘆くべきか、分からなくて、つい曖昧に笑ってしまったら殴られた。今度は飛んで行くことも許されず、掴まれた服が勢いよく引っ張られてびり、とどこかが破れた。


「 あなたのことだから怖気づいて全部入れなかったんでしょう。あなたが僕に盛った毒はそう強いものではありませんから、致死量に至らなければ、ただ深く眠るだけですよ 」
「 そう、なんだ……? 」
 気付かれた上に、全て見抜かれていた。彼が言うように私はどうしても包み紙にある全てを注ぐことができず半分くらい残してしまっていたのだ。それにしても何で曽良君は、私が盛った毒にそれほどまでに詳しいのだろう。それが私には妙に恐ろしくてならない。彼の手が首にからみつく。息が苦しい。

「 残した半分出して下さい。どこにやったんですか 」
「 え…… 」
「 どこに、やったんですか。早く出してあなたが飲んで下さい 」


 まるで死ね、と脅迫されているようだ。私は息を呑む。恐怖に全身が痺れる。
 残りの半分は処分してしまっていた。風にのせて庭にまいたから土と混ざり合ってもう分かるはずもない。


「 す、捨てたよ。庭、に 」
「 嘘を吐かないで下さい。どこにあるんですか 」
「 嘘じゃない……! 本当に、捨てちゃったんだよ……! 君が眠っている間に 」


 彼は舌打ちをもらして、腕を振るった。痛みが強い部分であれはどこでもいいように振り下ろされる腕に、私は悲鳴すら満足にあげられない。
「 嘘じゃないってば……! 信じて……。信じてよ……! 」
「 自分を殺そうとした人を信じろって言うんですか? 」
 ほとんど泣きじゃくりながら彼に訴えると、彼が呆れきったような顔でため息をついた。そして小さな声で、まあいいか、と言ったかと思うと、いきなり口付けてきたので息が止まった。心臓がうるさく鳴っている。怖さと罪悪感に煽られて何度も。


「 この毒は、中途半端に飲むとすごく、酔うんですよ。だからわざと微量に口にして遊ぶ人もいるみたいですけど 」


 長い指が私の喉をなぞる。




「 意味、分かりますか。芭蕉さん 」













 薬がないというなら今からあなたを眠った人間として扱いますけど、構いませんね。
 私まで口移しに毒を盛られたようだ。彼の声が遠い。


























 句読点打ち過ぎだよなーと思いました。某所に晒したものをちょこちょこ加筆したり削ったり訂正いたしました。カンタレラ。もしかしたら、っていうかは分かる人絶対、聞いたことある単語だと思います。あの曲が元ネタです。あるところでみた毒盛り蕎麦に心奪われてその衝動で書いてしまったんです……。あの曲は素敵ですよね……!

 最初ふと思い立って一人称をなんとか伏せて、どちら視点か分からないようにしたのですが、成功してますでしょうか。オイオイそっちが盛られ側かよ! と思って下さったならばこれに勝る嬉しさはないです。


関係ないけど私ちゅうすきやんなー。









×××