かなしみだけでは到底片付けきれない夢を見た。









 私が思うに、朝からこうして降り続けるこの雨は弟子のせいだ。今日の鬼弟子曽良君は随分と大人しい。いつもならば理不尽に嫌がらせや暴力を私にふるまう彼だが、今日はそれが、ないのだ。ためしにちょっと軽くボケてみたり呼び捨ててみたり自信のない俳句を見せてみたりしたのだが、曽良君の反応はとても静かで、俳句も指先で細かく千切られただけで、それでも十分に心は折れたけれども、なんだか、妙なのだ。傘から雨が伝ってくっきりとした玉になり落ちてゆくのを眺めながら、私は怖くなってしまった。曽良君、どうしたの?


「 曽良君、歩くの早いよ 」


 もうひとつ気になることと言えば、今日の曽良はいつもより急いていた。先へ、先へと、早く何かに辿りつかなければ気がやすまらないように。雨がよく降るこんな日だったので、ぬかるんだ土に私は何度も足を取られて転びそうになった。三度くらいは本当に転んだ。着物はもちろん、大事なお友達のマーフィーくんまで土でどろどろになって、思わず泣いてしまったらその間に曽良君が遠ざかってあまりにも小さくなったときはものすごくあせった。本当に置いていかれると思った。


「 曽良君。そーら! もう足痛くなっちゃったよ私! ここで松尾は休憩を提案します! 」


 ほとんど小走りになりながら訴えかけても、曽良君は振り返りもしなくて、まとわりつく汗と湿気のべたつきにうんざりしながら、私はそれでも追い続けた。何回も何回も名前を呼んで、それでも曽良君は止まってくれない。


「 曽良君に、置いていかれそうで、嫌だ! ばしょうっ! 」


 心はヤングのピーターパン松尾芭蕉の限界がとうとうやって来て、私はひどい呼吸を繰り返しながら、膝をおさえてへたり込んだ。もう嫌だもう知るかあんな弟子。ちらりともこちらを見やしない。ああもうパンらはぎだ。うずくまって膝を抱えたら被っていた傘が外れた。おまけに濡れた土の上に座ってしまったから下着に水がしみてきた。足音はもう、行ってしまった。私は置いてかれてしまったのだ。私の両頬はそれから間もなく涙でぐしゃぐしゃとなった。恨み事すらいえなくなるほど遠くなってしまった彼を想って、ただ泣くしかなかった。このまま一生昼のまま時が止まって欲しい。もう私は動けないけれど、夜は怖いよ。








「 なぜこんな所でへたり込んでるんですか。 」








 突き上げられるようにその声へと、目を向ける。あきれ顔の曽良が、雨の中そこにいる。
「 曽良……。…………ヒヒー! 」
 呼び捨ててみれば両目の白眼を攻撃された。いわゆる眼つぶしだ。
「 曽良君…… 」
「 はい 」
「 曽良君………… 」
「 傘、落ちてるじゃないですか。ほら、ちゃんと被っていないとハゲますよ 」
「 え。は、ハゲるもんか! この元禄のビューティフルムーンと謳われたこのハンサオがハゲる訳ないだろ 」
「 一時期ちょっとてっぺんハゲてたじゃないですか 」
「 それは君が剃ったんだよ! アホ! 」下から上へ、流れるようなチョップ。「 すいません! 」


 起き上がって顎をおさえていた私の頭に、曽良君が落ちていた傘を無造作にぽんとおいた。いやに長く響く痛み。いつもの曽良だ。いつも通りの曽良君が帰ってきた……。そう考えたら胸の中が一気に軽くなって、私はぼろぼろ泣いてしまった。それを見た曽良君にものすごく露骨に嫌な顔をされても、それは止まらなかった。





「 聞いていいかな 」
「 ……どうぞ? 」
「 どうかしたの。曽良君 」
「 何のことです? 」
「 今日、なん、な、なんか、しずかだ、ったから 」
「 いい加減泣き止んで下さい。……別にどうもしませんよ。ただ夢見が悪くて気分がすぐれなかっただけです。先に宿に行って休んでいるうちによくなりましたが 」
「 ゆめ? っていうか休んでたの…… 」
「 ええ 」
「 どんな? 」




 尋ねると、曽良君はそこで黙って、私の頬に触れた。雨のせいで冷えた指先に身震いする。その夢の内容を教えてくれる気は見た感じまったくないようだった。そのとき曽良君の口元が少しだけ持ちあがったのを私は見逃さなかった。彼が笑うのはいらないものを処分してさっぱりした時。ねえ曽良君、今、どうして笑ったの? 何か、捨てたの? 何を捨てたの?






















 海の日そのにっ。












×××